黙して語る。信念が物語る。 不器用だけど、無骨だけど、愚直に生きる。

代表日記

昭和の大スター、高倉建さんに続いて、菅原文太さんが亡くなりました…。

二人とも、多くを語らなくても、黙っていても、その存在感で語ることのできる方でした。

健さんは「不器用」、文太さんは「無骨」が代名詞でしたが、

どちらも芯の通った美しさを感じる日本人でしたね。

どうしたら、お二人のように年を重ねることができるのでしょうか…。

菅原文太さんは私が20代の頃、間近で数時間過ごしたことがあります。

沢田研二さんと共演した「太陽を盗んだ男」という映画宣伝の一環で、

私が週刊朝日の江森副編集長に話を持ち込んで、

太宰治の娘の太田治子さんが持っていた対談コーナーに文太さんに登場してもらいました。

当日、朝日新聞の旗がたなびく黒塗りの車に乗って荻窪にあった文太さんの自宅までお迎え。

いかつい付き人の方とともに、対談会場の帝国ホテルのスイートルームまでご案内しました。

対談では話題がどんどん広がっていきましたが、

本当に僭越ながら映画の話題にもう少し触れて頂くよう一言口をはさませて頂きました。

今思うと冷や汗ものです。大スター菅原文太さんと、あの太宰治の娘さんで作家太田治子さんとの対談中に、

しかも後に朝のワイドショーのキャスターを務めた江森陽弘副編集長が進行している中で口を挟むなんて…。

若いということは恐れを知らないということですね!

「太陽を盗んだ男」は「原爆を作って政府を脅迫する」という奇想天外なアイデアの日本映画でした。

大掛かりなカーアクション、国会議事堂や皇居前を始めとしたゲリラ的な大ロケーション、

シリアスで重い内容と、ポップでエネルギッシュな活劇要素が渾然となった作品、

原子爆弾製造や皇居前バスジャックなど、当時としてもかなりきわどい内容でした。

この映画には宣伝という立場で少しだけ関わらせていただきましたが、製作前に脚本を見たときは衝撃でした。

タイトルは、最終「太陽を盗んだ男」になるまでは仮のタイトルでしたが、

こんな映画が日本で作れるなんて!と興奮して眠れなかったのを覚えています。

興業的には都市部で大入り、地方で惨敗でしたが、

作品の評価は最近でも日本の映画史上ベストテンのランクインするほど高いものがあるようです。

お二人の死とともに、昭和がまた遠くなったようなきがします。

2学期も後半にはいり、学校では3者面談の時期ですね。

大学受験生、高校受験生にとっては最終章が近づいています。

順調に行っている生徒、そうでない生徒、色々ですが、これからが勝負です。

長い人生の中で競争はつきものだと思ってください。

目の前の現実としっかり向き合って、目の前の課題を確実にこなしていってください、

「流した汗の分だけ、涙が出る。流した涙の分だけ大きくなれる」

悩んで、悩んで、大きくなってください。

私たちは、最後の最後まで皆さんの応援団であり続けます!