ジャーナリスト志望で早稲田に進んだ私でしたが、
大学4年となり大手新聞社等への就職が大変厳しい状況の中、自分の進路に迷いが生じていました。
このままジャーナリストへの道をあきらめて普通の会社に就職して、当たり前の人生を歩むのか…。
いや、やっぱり何か違う!このままではいやだ!
私は就職浪人を決意して父に手紙を書きました。(その手紙を亡き父は残していたようです。)
自分の父親に拝啓から始まる何ともよそよそしい文体ですが、その時の自分の思いがつづられています。
父の返事は「勝手にしろ!そのかわり仕送りはなし!」
私は、卒論とゼミ(超有名教授加藤諦三先生のゼミ)だけをわざと落として
もう一年大学に籍を置き自分探しの1年をおくることになりました。
仕送りがストップとなり、マンション代から生活費まで全部自分で捻出しなければならない…。
私はある会社のアルバイト求人広告に目が留まりました。
『リクルートセンター』 聞きなれない会社でしたが、新しい情報産業で待遇も非常にいい…。
私は入社試験を受けてみることにしました。
新橋の本社試験会場には人、人、人…。
アルバイト採用なのにこれは一体何なんだ!
概要の説明を受けた後、適性テストです。私はメラメラと負けん気が出てきて、
こいつらに負けないぞ!という気持ちで臨みました。
結果は後日お知らせするということになり、しばらくすると「面接に来られたし」との電報が届き面接。
結果はまた後日ということで、その後「採用決定、○○日に来られたし」との電報が届きました。
後で聞いてみると、東大の学生も含めて100名程度応募があり、採用は1名だったのこと。
私の人生で最も競争率の高いテストでした。
それから『リクルートセンター』(のちのリクルート)の編集管理課で「リクルートブック」の編集の仕事をしながら
ゼミの授業だけに出席するという1年が始まりました。
先日、リクルートの創業者である江副浩正氏が亡くなりましたが、
まだ年商200億程度だったでしょうか、それからリクルートグループはまさしく時代を席捲する会社として急成長を遂げていきます。
私は毎日スーツを着て、満員電車に揺られ、虎ノ門まで出勤していました。
仕事は編集の進行管理で、企業の人事部に原稿を取りに行ったり
(今思えば、イトーヨーカドー本社内にあったセブンイレブンにも行った記憶があります。まだ小さな会社でしたが、担当者が大変真摯な姿勢でした)、
大日本印刷、凸版印刷等大手印刷会社に競合他社の刷り上り前の見本を収集に行ったり(産業スパイか?!)。
毎日残業4~5時間、とても忙しかったですが、
会社の熱気と時代の風を感じながら働き、充実した毎日でした。
(給料は当時の大卒初任給の2倍はありました!)
伝説の起業家である江副社長も私の勤務するフロアに降りてきてニコニコと談笑したりして、
大学のサークルのような熱気溢れる雰囲気でした。
この1年の日々は私にとって貴重な時間となりました。
まわり道、道草だったかもしれませんが、
正式に就職する前に、準社員として会社勤めの体験ができたこと、
まさにこれから伸びようとするクリエイティブな会社を実感できたこと、
そして1年を通じて自分を見つめることができたこと、
今の自分を形成するかけがえのない時間でした。
今、受験生の諸君は、新しいスタートラインに立とうとしています。
今までしっかりと準備をして、努力を重ねてきた君。
今まで努力が足りなかった。そのことにやっと気付いた君。
気付いた時が始まりです。
自分だけの夢がある。
夢に向かって、一歩一歩、努力ができる。
「誰にも負けない」努力ができる。
そんな人間になって欲しいと思います。
私は、君たちの挑戦を祈るような思いで見つめています。
家族より
大事なことが
あるそうで
駆け出して行く
吾子は思春期
(25年1月)
駆けて行く
ただひたすらに
駆けて行く
タスキの思いが
駆け抜けていく
(25年2月)
※旅立ちの時は、親離れの時期です。
保護者である我々も子離れをしなければ…