若き時代に出会う人 若き時代に見る夢

ちょうど10年前の9月のことです。

2001年9月11日、世界中がニューヨーク貿易センタービル同時多発テロの衝撃にゆれる中、私の元に訃報が届きました。

若き日の忘れえぬ人、映画監督、相米慎二の死を告げるものでした。

私は彼と彼が「翔んだカップル」(1980年)で映画監督デビューする前の助監督時代に知り合いました。

年下の私に対してもフランクにお付き合いしてくれて、「マツ!」「相米ちゃん!」と呼び合って、マージャンをしたり、お酒を飲んだり…。

私が東京での仕事を辞めて、徳島に帰る送別会の時も、最後まで付き合ってくれて、二人きりで下北沢の居酒屋で飲み明かしたなあ…。

その時彼が行った言葉が忘れられません。

「マツ、お前、田舎に帰っても、ただの田舎の親父になるなよ!仕事でお金を作って、一緒に映画作ろうぜ!俺が監督でお前がプロデューサーさ!」…。

翌年撮った「セーラー服と機関銃」(1981年)が大ヒットし、その後も「ションベンライダー」(1983年)「台風クラブ」(1985年)「東京上空へいらっしゃいませ」(1990年)「お引越し」(1994年)「あ、春」(1998年)「風花」(2001年)と途切れることなく秀作を撮り続け、映画界のトップランナーとして走り続けたのです。

誰もが認める気鋭の監督になってからも、時々思い出したように電話があり、「マツ!金できたか?早く映画やろうぜ!」と言ってきたり、

「東京にいると色々うるさいから、来週徳島に遊びに行くからな!」と言って、本当にゴルフバッグを抱えてやってきたり…。

私が1998年に結婚したときも、「おう、俺行くよ!」と徳島まで飛んできてくれました。

そんな相米ちゃんの突然の死に呆然としながら、お通夜、ご葬儀に参列するために上京しましたが、キラ星のようなスター達が、早すぎる彼の死を惜しんで集まっていました。

薬師丸ひろ子が、小泉今日子がノーメイクで泣いています。

私は悪戯っぽく微笑む彼の遺影と対面しながら、果たされることのなかった彼との夢物語、四国を舞台にした映画を撮るという約束を思い起こしていました。

その夜、遅くまで昔の仲間達と酒を酌み交わしました。井上陽水の名プロデューサーのYさん、高中正義のプロデューサーSちゃん、Jリーグ関連の会社を興したKさん…。みんな彼の類まれなる才能を惜しみ、悪戯坊主のような、でも何とも言えない温かい、人間味のある彼との思い出話に花を咲かせました。

若き時代に共に生き、共に夢見た人たち。

若き時代に出会う人、若き時代に見る夢。

私はスクールの子どもたちに、これからの10年20年の間に色々な人と出会って、色々な夢を見てもらいたいと思っています。

子どもたちの近い将来に経験する、高校受験、大学受験によって何が変わるか。

確実に言える事は、出会う人が違うということです。

出会う人が違うということは、人生が変わるということです。

今までの、近所の中の出会い、徳島の中だけの出会いから、世界はどんどん広がっていきます。日本中には、いや世界には、信じられないくらいスケールの大きな人間がいる。そんな人との出会いが、子どもたちの人生を創り上げていく。

人生は選択です。

今まで、生まれた町、育った町の最寄の学校に通い過ごしてきた日々。そんな時代から、子どもたち自身の選択で一歩踏み出すのが、高校受験であり、大学受験です。

そのためにも、子どもたちには、今、鍛えておいて欲しい。

心と、体と、頭を!

『子どもたちよ、良き人生を!』